2009年06月15日

encounter

夜のバスターミナルは、人で溢れかえっていた。色とりどりのキャリーバックを引きながら行き交う人を、並んだ列からぼんやりと眺める。もうあと数時間で日付が変わろうとするこの時間帯に、彼らはどこへ向かうのだろう。明らかに出張帰りという風情のビジネスマンらしき男性や、ショッピングバッグを両手にぶら下げた若い女性もいる。どこかのテーマパークで遊んできた様子の学生達は、輪になって談笑している。長距離の移動に備えてだろうか、売店で食べ物を買っている親子連れもいる。頭上を流れるアナウンスでは、有名な観光地に混じって聞いた事のない地名が飛び交っていた。私はといえば、帰省先から学校の寮へ戻るという、月に一度の日常を過ごしているにすぎない。それも、距離的には大した事はなかった。もともと、大学へはかろうじて電車で通える距離なのだが、運賃が高いのと移動の便を考えると、寮へ入ったほうが都合が良かったのだ。こうして月にたった一度、実家と寮を往復するだけでも少々面倒だと思ってしまう私にとって、寮という存在は非常にありがたいものだった。荷物は肩にかけたバッグのみという軽装は、どうもこの場に似つかわしくない。それでもここへ来る度に、何故だか自分までもが旅に出るような気分になってしまう。

23時ちょうど発の最終バスが停留所に到着すると、まだドアも開いていないのに、列が僅かに進みだした。私はカバンの中に手をやり、古びた革の小銭入れから、小さく折り畳まれた紙片を取り出す。狭いカード入れの中に無理に押し込んだものだから、端はよれて折れ曲がり、かすかに毛羽立っていた。5枚つづりになっているその一片を切り取り、残りは再び、学生証だとか運転免許証だとかの間に適当に差し込む。やがて、圧縮された空気が漏れるような音を出しながらドアが開き、列はその中へと飲み込まれていった。週明けというのに、下り線は随分と混んでいた。前から3番目の左側の席の窓際に座り、外の様子を眺めていると、次から次へとこのバスに人が乗り込んでくる。いつの間にか、空いていた隣の席も埋まっていた。急に、車体が小刻みに揺れだし、エンジンがかかる。扉が閉まったかと思えば、すぐに再び開き、駆けよってきた人が乗り込んで座席に着くのを確認した後、バスは発車した。しばらく一般道を走り、道路脇に唐突に現れたインターチェンジを通る。加速路に入ると、まるで滑走路を走る離陸直前の飛行機のように速度を上げ始めた。そのことに何故か胸騒ぎのようなものを感じ、いつもは絶対にしないのに、慌てて腰の辺りを探り、引っ張りだしたシートベルトを閉めた。滑るように本線に合流すると、バスはようやく軌道に乗る。昼間は常に渋滞している辺りだが、深夜は気持ちがよい程、空いていた。

車窓を流れていく夜のラブホテルはどこか神秘的だ。高速道路の脇に、思い出したようにポツリと現れるそれは、昼間に見ると随分と安っぽい。白い外壁は排気ガスで薄汚れ、ネオンの消えた看板が物悲しく、まるで場末の遊園地にあるお城のようだった。しかし、辺りが夕闇に包まれてライトアップされると、木立に囲まれたそこは、どこかの古城のような風格を漂わせはじめる。そう。夜の闇は、私が行った事も見た事もない、異次元の景色を見せてくれる。クネクネとした銀色のパイプが複雑に絡み合った何かの大きな工場は、まるで映画の中にでてくる遠い未来の宇宙ステーションのよう。道路を添うように流れている黒い川は、その静かな川面に何百という夜の灯りを映しだし、夜空を閉じ込めていた。このバスは、私をどこへ連れて行こうというのだろう。ふと、隣に座っていた人が、カバンの中をごそごそとやり、一冊の本を取り出した。さりげなく横目で盗み見るそれは、どこかの観光ガイドのようだった。地名までは読み取れないのを良いことに、私の妄想はどんどん広がっていく。「どちらからいらしたのですか?」その問いかけに、私の心臓が一瞬大きく跳ねた。その人の手元から慌てて顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべた初老の紳士と目が合う。

「あ、東京からです」そう答える私を見て、彼は、おや? とでもいうように首を上品に傾げて、眉をひそめた。同じ場所から乗ったのだから、この質問は少し妙じゃないか、と疑問に思いながら、慌てて考え直す。どこからやって来て、どこへ向かうかなんて、あのバスターミナルでは、それこそ千差万別だろう。「トウキョウ……」そう独り言のようにつぶやくと、彼は驚いたように目を見開いて、私をじっと見つめたまま、口を閉じてしまった。単身赴任のように週明けに上京するのならともかく、下るのだから、珍しいといえば珍しいのだろうか。だが、このバスは、私のように寮に入っている学生がよく利用するので、やっぱり取り立てて珍しいものとは思えなかった。「どうかしました?」不思議に思って口に出すと、彼は意外だとでも言いたげな顔になった。「……あぁ、13区のことですね。いや失礼。その呼び名を聞かなくなって久しいものですからつい」再び彼は、穏やかな笑みにどこか嬉しそうな表情を浮かべながら口を開いた。「珍しいですね。あなたのようなお若い方がその呼び名を知っているのは」これは一体、どういう意味だろう。なんて返したらよいのか分からず、戸惑っている私を見て、彼は不思議そうな顔になった。もしかしたら、少しおかしな人なのかもしれない。何だか怖くなって何も言えないままでいると、彼はまたハッとし、少し早い口調で聞いてきた。

「もしかしてあなた、8区の大学の学生さんですか?」無視をするか、もしくは運転手さんに言った方がいいのかもしれないと思いつつ、彼があまりにも切実な様子で話しかけてくるので、つい、口を開いてしまった。「8区とはなんのことでしょう」小さな声で答えると、彼は納得したような顔になり、「やっぱり」と口の中で呟いた。「どうも、迷われたようですな」その言葉に心の中で首をかしげるも、やっぱり怖いので何も言えない。「随分と前に、あなたと同じように迷われた方がいましてね。その方もそこの学生さんでしたよ。あぁ……何て言ったかな。古い呼び名が思い出せない」更なる混乱をもよおす話に、目を白黒させながら黙り込んでいると、彼は気の毒そうな顔で、再び口を開いた。「ごく稀にいらっしゃるんですよ。そういう方が。座標が近いせいで移転装置にバグが生じてしまうことがあるんです。だから私は、書き換えた方がいいと何度も支局に言っているのですが……」彼はそう言うと、一度言葉を切った。「ほら、外を見てごらんなさい」彼は、穏やかな声でそう言いながら、ゆっくりとその方向を指差す。私は、言われるがままに首を左に回して、窓の外を覗き見た。漆黒の空間に、青く輝く球体。どこかで見たことのあるそれは、ピンポン球のように小さく、精巧な模型か何かじゃないかと思うくらい、まるで現実味がない。すぐ側には、バレーボールよりももっと大きな、真っ赤な球体が浮かんでいた。よく見ると、表面がチラチラと揺れていて、火の竜が飛び跳ねているようだった。異様な光景から目が離せないでいると、男性が耳打ちしてきた。RU486

「素晴らしい眺めでしょう。何度見ても美しい」「あの青くて丸いのは……」「心配はいりません。ちゃんと元の時代に戻れますから。次の駅で一緒に降りましょう」にっこりと微笑まれ、私は訳が分からないまま、そっと頷いた。それを合図に、車体が揺れ始める。驚いてまた外を見るも、先ほどの不思議な光景とは打って変わって、何故か、真っ暗で何も見えない。「着陸の際は遮光されるんですよ」突然、バスの下の方で、何か大きな機械音がした。「さぁ、着きましたよ」車体の揺れが収まるなり、彼が私に声をかけた。もう一度窓の外を覗くと、そこは、ごく普通のバス停だった。頼り無さげな街灯に照らされた簡素な看板には、25という数字のみが表示されている。乗客を数人降ろすと、バスはごく普通に走り去っていった。迎えに来た人との再会を喜び、抱き合ったり、握手をしたりしている人がいる。乗り継ぎをする人は、側にあった時刻表らしきものと時計を見比べている。やがて、それぞれの目的地へ散り散りになっていき、辺りはシンと静まり返った彼に促され、私は目の前の古びた建物へと向かう。中に入ると、待ち合い室になっているようで、簡素な木のベンチが何本か並べてあった。時間が時間なので、腰掛けている人はごく僅かだ。バックパックを枕代わりにして寝ている人もいれば、会社帰りのサラリーマンらしき人もいる。その前を通り過ぎようとしたとき、ふと、男性が足を止めた。

「おや」その声に顔をあげた、男性というよりは青年といった顔つきのスーツ姿の会社員が、少し驚いたような表情で、こちらに目を向けた。「こんな時間に会うとは」「僕も驚いたよ」「お前も遅くまで大変だな」「父さんこそ、これから次の便に?」「あぁ、そのつもりだったんだが」そこまで言うと、男性は掌を私に向けて、紹介するような身振りをした。「例の大学の学生さんでね。また迷い込まれたようなんだ。困ったもんだな」「またか。それは困ったな」二人は、困った困ったと言いながらも、いたってのんびりとした口調で話し始めた。そこからは、さして困ったような雰囲気は微塵も感じられない。「あのバス停の座標はよろしくないと、私はもう何度か支局に言っているんだがね」「変更するとなると、近隣の方から苦情が来るんだよ」「まぁ、そっちも大変なのは分かるけどなぁ」「それに、上はなかなか腰をあげないんだよ」「今の所、目立った被害は起きていないからな」「……そうだね。元の時代に戻っても、夢だと思って忘れてしまうようだから」二人はまるで、平和な世間話でもしているかのように、呑気そうにそう言う。どこか腑に落ちない私は、被害者として何か言うべきだと思い、口を開きかけると、こちらに振り向いた青年と目が合った。

「今夜はもう遅いから、僕の家に泊まるといいよ」親しみやすい、優しげな笑みを浮かべる青年に、頷きそうになって慌てて留まる。どこか、遠いところへ来てしまったらしいことは確かだが、だからと言って、見ず知らずの人の家に泊まるなんて、どんなところだろうと危険なことに変わりはない。「あの、ご迷惑なので……」そこまで言いかけて、ふと黙り込む。この見ず知らずの土地で、どうしろというのだ。宿に泊まるにしても、持ち合わせはごく僅かだし、一人になるのはもの凄く心細かった。運良く親切そうな人に出会えたのだから、好意に甘えたいというのが本心ではあった。「あぁ、警戒させてしまったね。でも、泊まるにしても、この辺りは宿がないからなぁ」青年は、ぼやくようにそう言って、少し気まずそうな顔になると、恥ずかしげに笑った。男性は、不安そうな顔をしている私を覗き込み、穏やかな表情のまま口を開いた。「これは私の不肖の息子ではありますが、一応、支局直属の計算師として働いているので、心配しなくても大丈夫ですよ」そうは言っても、私のいたところと勝手が違うのだから、何を基準に信用すればよいのか分からない。頷くわけにもいかず、どうすれば良いのか分からないまま黙っていると、男性は再び口を開いた。「私の家にお招きすれば一番良いのかもしれませんが、実はこれから出張でして」男性は申し訳なさそうに、頭に手をやりながら説明をする。私は急に、寂しいような気持ちになった。

「彼の家はこの近くですし、そうすれば明日には帰ることができますから」どちらにせよ、今の私に与えられた選択肢は二つだった。ここで夜を明かすか、青年の家に泊まるか。「狭い家だけど、一応客室はあるから安心していいよ」青年は、屈託ない笑顔でそう言うと、腕時計に目をやった。「あぁ、時間だ。最終便が来るから急ごう」そう言ってベンチから立ち上がり、戸惑っている私の背中を、促すように軽く叩いた。「それではお嬢さん、またいつかお目にかかりましょう」男性は、初めて会ったときと同じように、穏やかな笑みを浮かべながら手を差し出した。私は、無意識のうちにその手を握り、彼と目を合わせる。「さようなら」私は、青年に腕を引かれながら、建物の外へ出て行った。バスには、私と青年しか乗っていなかった。何の変哲もない、ごく普通のバスだったが、窓から見える景色も、いたって普通の住宅街だった。所々に立っている街灯の黄色い灯りが、ぼんやりと辺りを浮かび上がらせていた。「ご飯はもう食べた?」「はい」「遠慮しないでいいよ。今日は疲れたでしょう」「いいえ。大丈夫です」男性は心配しなくていいとは言ったものの、未だに緊張が解けない。家を出るときに軽い夕飯を食べてきたこともあったが、胃の辺りがもたれたように重くなっていた。とても、何かを口にする気にはなれない。「ごめんね。迷惑をかけてしまって」ふと青年が、ぽつりと口を開いた。MaxMan

「昔はね、こういうことがあると歴史が変わってしまうって、大騒ぎしていたこともあったんだ。ほら、確か古い映画にあったよね。そういうの」多分、あれのことかな、と、私のお気に入りの映画のひとつのことを思い浮かべる。「でもね、今、僕がいるこの世界は、君の世界の未来とは少し違うんだよ」そう言った彼の表情は、何故か少し寂しそうだった。「あるとき一人の学者が論文を発表して、過去と未来は繋がっていないって実証したんだ」彼は、膝の上で手を組み、遠くを見るように前を向く。私は、彼の口元のあたりをぼんやりと見つめた。じっと耳をすませると、彼の柔らかい声の後ろから、静かなエンジンの音が聞こえてくる。「例えば大昔の話で、たまたま僕たちの祖先が生き残ったから今の僕たちがいるんだって思うでしょ。でもね恐竜達が生き残った別の世界も存在するってことなんだ」「行ったことあるんですか?」思わずそう聞くと、彼は笑って首をふった。「ないよ。理論上の話だからね。座標が分からないから行くことはできないし、行けたとしても向こうに移転装置がなければ戻ってくることができない」何となく、彼の言っていることが分かるような気がして、曖昧に頷くと、彼は困ったように笑った。5つ目の駅を過ぎてしばらくすると、彼が停車ボタンを押した。車内のアナウンスもないのに、よく降りる場所が分かるなと、少し感心する。

「そりゃ、毎日乗ってれば分かるよ」バスが止まると、彼は少し慌てた様子で財布の中から回数券のようなものを数枚引っぱりだした。「これ、この子のぶんです」彼は運転手に定期券のようなものを見せながら、先ほど取り出した紙片を降車口脇にあるボックスに差し込む。「小銭を持っていなかったから少し焦ったよ」「あぁ、私もよくやります」少しだけ、二人で笑い合う。「こういうところは何故か進歩がないんだよね」照れくさそうに笑う彼を見て、何故か私は安堵した。自分のいた時代と何ら変わりないそのやり取りが、不思議と心地よかった。25−6とだけ書かれた停留所のすぐ目の前には、4階建てくらいの平たいアパートが、規則正しく何棟も連なっていた。コンクリートのような壁面が、灯りに照らされて鈍く光っている。団地と様子が似ていたが、こちらの方が間取りが広そうだった。「ここまで来れば、土地がいくらでも余ってるって思ったんだろうな」アパートに向かって歩きながら、彼は話し始めた。「そんなに人口が増えたんですか」「そう。だから余裕でいられたのは最初の頃だけ。庭付き一戸建てなんて夢の話だよ」少しおどけた様子で、彼は夜空を指差す。「せっかくこんなに遠くまでやってきたのにね」その言葉に、私は急に鼻の奥がツンとして、どうしてだか涙が出そうになった。6と壁に大きく書かれた棟に入り、私達は金属製の古くさい螺旋階段を上り始めた。静かな空間に、カンカンと二人の足音が響きわたる。3階まで一気に上ると、少し息が切れてしまった。

「大丈夫? ここは新しいタイプの住宅地だから、エレベーターがついてないんだ」気遣うような彼の言葉に、私は肩で息をしながら無言で頷く。「新型なのに、ついてないんですか」「うん。予算をケチったんだよ」なるほど、と荒い息を吐きながら、私達はまた少し笑い合った。ようやく4階の、一番奥の扉の前までたどり着き、彼が鍵を回す。「はい、どうぞ。お疲れさま」そう言って扉を開けると、何かのセンサーが自動的に作動するのか、照明がパッと付いた。「すぐに何かいれるね。お茶でいい?」「あ、どうぞおかまいなく」白熱灯に照らされた空間は、おどろくほど所帯染みていた。12畳程度の広さの部屋に、変わったところなど何も見当たらない。中央には、一人がけのソファと足の低い小さなテーブルが置かれていた。壁一面に備え付けられた大きな書棚には、本や雑誌だけでなく、よく分からない細々としたものがあちこちに放りこまれていた。毛足の長いベージュのカーペットの上に、ちゃんと靴を脱いであがり、彼の様子を観察する。こじんまりとしたキッチンは小綺麗に片付けられていたが、朝食に使ったのだろうか、パン切りナイフと、使いこんだ感じの木の板が無造作に置かれていた。彼は、コンロの上にあった銀色のケトルを掴むと、蛇口を捻り、勢いよく流れ出る水に注ぎ口をあてがった。

「そこのソファにかけてて」そう言って私を促し、カチリとコンロの栓をひねる。「それは、ガスですか?」ボウッと音をたてている青白い炎を、少し遠巻きに見つめながら、彼に聞く。「そうだよ。ここは資源だけは無駄に豊富でね。電気より安いんだ」ふと、右隣の書棚を何気なく見やると、ちょうど目線の位置に立てかけてある、透明の板に気がつく。その間には、何か小さな白い紙片が挟まっていた。「僕の母は、君の大学の学生だったんだ」彼はこちらに歩み寄ると、私の視線の先を見てその板を手に取り、差し出してきた。よく見ると、白いと思った紙の端は黄色く褐変し、所々に小さな染みにようなものができている。「これ、28年前の学生証です」そう言って私は自分のカバンの中を探り、小銭入れから一枚のプラスティック製のカードを取り出した。目の前にあるものと見比べると、変わっていないのは校章だけで、押された朱印の形が違っていたり、学部の名前が編成前のものだったりと、随分と様変わりしていた。「母も、君と同じくらいの歳にここに迷い込んできた」彼は、学生証から目を離さずに、ポツリと呟く。「父と出逢って、結婚して、僕が生まれた。でも、僕が12才のときに、もとの時代に戻ってしまったんだ」急に、彼のお父さんの言葉を思い出した。随分と前に、ここに来た学生とは、彼女のことだったのだろうか。剥がれかかった白黒の写真から、髪の長い綺麗な女性が、少し緊張した眼差しでこちらを見つめていた。「きっと、故郷が恋しくてたまらなかったんだね」彼は、そっと、写真に語りかけるようにして呟いた。それは、どこか不思議な話だった。ここは、驚くほど私のいたところと似ている。どちらが私の世界なのか、分からないくらいに。

「いくら似ていてもね、母さんにとっての故郷は、ずっとあそこだったんだと思う」私の心の中を読んだかのように、彼は続ける。「ごめんね。嘘をついた。本当は、僕の一存で座標を変えることはできるんだ」彼は、少し申し訳なさそうな声で私に言う。「それが仕事だからね」学生証から顔をあげると、彼はやっぱり申し訳なさそうな顔をしていた。「でもね、23時発の前から3番目の左側の窓際に座っていればいいわけじゃない。色々な要因が重なり合って、偶然としかいえないような確率で、君はここに来たんだよ」そう言って、彼はぎこちなく笑ってみせた。私も、つられて笑おうとしたが、うまく笑えなかった。「それでも僕が座標を変えないでいるのは、いつか会えるかもしれないと、未練がましく期待をしているから」「お母さんは、きっと後悔してると思います」彼が今にも泣き出しそうだったので、つい、口に出してしまった。だが、こんなことを言ってもどうにもならない。彼女は、もう二度と、ここには戻れないのかもしれないのだから。「ありがとう。でもね、たぶん、僕は母さんを見ることができるんだよ」彼は少し嬉しそうな顔で私を窓辺に連れていった。生成りの薄手のカーテンをさっと引き、窓を開ける。「ほら、あそこにある光は、とても古いものだから」そう言って、彼は夜空に瞬く無数の星を見上げた。

突然、思い出したようなタイミングで、シュンシュンとお湯の沸く音が後ろから聞こえてくる。慌てて彼は窓を閉めると、キッチンへ駆け込み、コンロの火を消した。「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」「紅茶がいいです」少し大きめの声で、奥から話しかける彼に、同じように声を張って答えてから、私は窓際を離れた。翌朝、控えめなノック音で目が覚めて慌ててリビングに行くと、机の上には既に朝食の準備が整っていた。「おはよう。よく眠れた?」「すみません。寝坊しました」彼は、昨日とは違う色のスーツを着ていて、今にも出勤できそうな様子だった。遅刻させてしまったのかもと思い、不安に思いながら側にいくと、彼は紅茶の入ったポットを手渡してきた。「気にしないで。今日は遅番だから。早番だったら叩き起こしてたけどね」楽しそうにそう言って、彼はキッチンからスツールを引っ張りだし、席につく。私は、ポットから二人分のお茶を注ぎ、一人がけのソファに座った。「いただきます」焼きたてのトーストには、厚切りのバターが乗っていて、じわじわと下のほうが溶けはじめている。小さなティースプーンでそれを塗り広げようとするが、上のほうがまだ硬く、うまくいかない。お腹の空いていた私は、もどかしくなってスプーンを置き、端からかじり付いた。夜夜堅

「君の分も焼くね」私の食欲を見て、彼はパンをもう2枚切り、トースターにセットする。昨日感じていた胃のつかえは、ぐっすりと眠ったせいか、すっかり消えていた。カーテンの間から差し込む日差しは温かく、柔らかで、とても心地良い。様子がまったく違うのに、まるで自分の部屋にいるような錯覚すら覚える。「ごめん。今、お米を切らしてて、パンしかないんだ」「パンは好きです」「良かった。納豆もあるけど、上にかける?」思わず私は、最後のひとかけらを口に放り込むのをやめて、彼の顔をじっと見つめた。「パンの上にかけて海苔と一緒に食べると美味しいんだけど」彼は、私の表情を見て言わんとしたことが伝わったのか、少し自信なさげにモゴモゴと呟いた。「その食べ方は、初めて聞きました」「あれ、おかしいな……」朝食を終えると、彼は、机の上にごろりと転がっていた果物を剥いてくれた。分厚い皮を剥くたびに、細かな黄色の飛沫がとび散り、あたり一面を爽やかな香りで満たしていく。それは、ごく普通の、少し酸味の強い夏みかんだった。「お土産に持っていくと良いよ」部屋を出るときも、そう言って彼は、私に一個、投げてよこしてきた。手にしてみても、やっぱり何の変哲もないただの夏みかんだったが、何故か、とても大事なもののように思えてきて、カバンの中にそっと仕舞いこんだ。がらがらに空いたバスに乗り、昨日来た道を戻る途中、私は彼に話しかけてみた。「やっぱり、私のいた時代は、あなたの時代に繋がっているように思えるんですが」彼は、少し驚いたような表情になり、「そう?」と言って優しく笑った。

「うまく言えないけれど、私達が、変わらないままであり続けたから、ここが在るような気がするんです」「そうだね。もしかしたら、どこかで繋がっているかもしれないな」私達は、昨日と同じ、25とだけ書かれたそっけないバス停で別のバスに乗り換えた。外の景色を眺めていると、住宅街の中に、少しだけ高い建物がちらほらと見えはじめてくる。やがてバスは、一際古そうな、大きな建物の前でとまった。その停留所には、25−30と書かれていたが、彼の家からどのくらい離れているのかはよく分からなかった。建物に近づくと、茶色の外壁は所々剥げていて、修繕中なのか足場が組まれている。警備員さんに挨拶をして中に入り、正面に設置された古いエレベーターに乗り込む。彼が6と書かれたボタンを押し、「閉」ボタンを押そうとすると、扉の向こうから駆けてくる人が見えた。「あぁ、すみません」「何階ですか?」「8階をお願いします」彼が8と書かれたボタンを押すと、扉はガタガタと音をたてながら勝手に閉まっていった。「そちらは」後から乗ってきた中年の男性は、私を見ながら彼に問う。「例の、23時発の被害者ですよ」「これは珍しい。とんだ災難でしたね」その人は、私に向かってにっこりと笑いかけると、急にいたずらっぽい目つきになった。

「ここで見たことは、誰にも話してはいけませんよ」「なに言ってんですか」青年が、少し呆れたような口調で口をはさむと、彼は笑い声をあげた。男性と別れて6階で降りると、そこは、ごく普通の事務所のようだった。青年より少し年齢が上に見える一人の男性が、パソコンのようなものに向かって何かしていたが、私達が通ると、顔を上げてきた。「よう。そろそろ交替の時間か」「あぁ、でもその前に、9号室を使わせてもらうよ」「珍しいな」「これを期に、座標を書き換えようと思ってるんだ」彼は、珍しいと言うわりには、取り立てて驚いた様子もなく、私を見るとニヤリと笑った。「いいのか?」「何が?」「俺はてっきり、お前が座標を変えないのは何か如何わしい理由があると思っていたんだが」「うるさいよ」青年は、笑ってあしらうと、私を奥の部屋へと連れていった。「そこに立って」部屋の中は、まるでどこかの研究室のように、重厚な機械で溢れかえっていた。無数の配線が壁と床を這い、ピカピカに磨かれた銀色のそれらは、古いタイル張りの床の上で、異様なコントラストを成していた。言われた通り、彼が指差した所に立つが、別に何かの印があるわけでもなく、ここからどうやって私は元の時代に戻るのだろうかと、不思議な気持ちになった。「あぁ、これだ」彼は、机に設置された大きな画面上に映しだされた無数に並ぶ数字の配列をしばらく見つめると、納得したような声をだした。

「ほら、ここにバグができてる」そう言って、私の方を見て画面を指差すが、私には何のことだかさっぱり分からない。「今から座標を割り出すから少し待ってて」再び、彼は数字の配列に向き直り、何やら打ち込みはじめた。私は思わず、その後ろ姿に向かって話しかけた。「座標は、変えてしまうんですか」「うん。君が無事に戻ったらね」彼は打ち込む速度を緩めずに口を開く。「変えないでください」口から出た声は予想に反して随分と大きく、少し強い調子だったので、驚いた様子で彼がこちらに振り向いた。「その、今の所、目立った被害は起きていないから……」気まずくなって慌てて付け足すと、彼は、少し困ったような、でも口元には淡い笑みを浮かべながら、私をじっと見つめた。しばらくの間、奇妙な沈黙が続いた。相変わらず彼は、優しげなまなざしで私を見つめたまま何も言わないので、とても居心地が悪い。「そんなことを言われると、どうしていいのか分からなくなるよ」やがて彼は、やっぱり困ったような笑みで小さく呟くと、くるりと画面に向き直り、素早く何かを打ち込んだ。「これでよし。さぁ、そこに立って。もっと奥だよ」彼は、声の調子を少しだけ変えて私を促すも、そこにあるのはただの床だから、どこに立てばいいのかいまいち分かり辛い。「その辺りでいいよ。うん。さてと、準備はいいかな。忘れ物はない?」その言葉に、肩からさげたカバンの中を念のため覗いてみるが、大したものは入っていなかった。私が頷くのを確認すると、彼は、また素早く何かを打ち込んだ。その瞬間、周囲の機械がうなりをあげて起動をはじめ、そのかすかな振動が、床から私の足の裏に伝わってくる。

「あの、これでもうお別れなんですか?」少し騒がしくなった周囲の音に負けないように、私は声を出す。彼は、そっと首を横に振った。「また朝ご飯を食べにおいで。今度はご飯と塩鮭を用意しておくよ」「でも」「もしかしたら僕は、そっちに行くかもしれない。いつかね」確かにそう言って微笑む彼に、私は大きく頷いた。すると、辺りは突然、巨大なフラッシュでもたいたように強い光に包まれる。私は、眩しさのあまり強く目を瞑ると、その光は瞼の内側まで入ってきた。目の前が、白に浸食されていく。気がつくと、私は車窓をぼんやりと眺めていた。バスは既に高速道路を降りていて、人気のない深夜の一般道を走っている。ふと前を向くと、時刻はちょうど、0時を少し回ったところだった。道路が空いているため、昼間よりも随分と早く着くことに、少しだけ得をしたような気持ちになる。ふわりと、唐突にそれは漂ってきた。「いい香りですね」急に話しかけられたのでびくりとして隣をみると、一人の女性と目が合った。私の母親よりも少し若そうなその人は、どこかで見たことのあるような顔をしていて、それが何故だか思い出せない。不思議に思って、まじまじと見つめると、彼女は優しげな微笑みを浮かべた。「とても、懐かしい香りだわ」彼女はそう言って、少しの間目を瞑り、小さく溜め息をついた。私は、カバンの中からその香りの元を取り出した。「よかったらどうぞ」「あら、いいのかしら」女性は、まるで少女のように顔をほころばせて喜んだ。「えぇ、私はもう食べたので」彼女は私から夏みかんを受け取ると、そっと顔を近づけた。「本当に、良い香り」再び私は車窓に目を向ける。そこから見える景色は、見覚えがあるようでいて、でも、何かが違っていた。バスは、夜の道路をひっそりと走っていた。曲美
posted by chinaseiryokuzai at 12:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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