2009年05月09日

月光

それは、夢か現か幻か。

(1)

 わたしはゆっくりと目を開けた。どれくらいのあいだ、眠っていたのだろう。頭がぼうっとしてはっきりしない。きっちりと閉めきられたカーテンの下から、部屋の中に月の光が忍び込んできている。学校から帰ってきてすぐに横になったから―――随分と長いあいだ眠ってしまったようだ。辺りは無音だった。風の音も、庭の木が揺れる音も、何も聞こえない。まるでこの世界には自分しかいないような気がしてくる。別にそれでも良いと思っていた。人間は決して孤独では生きていけないと言うけれど、死ぬときは誰だって独りになるのだから。そう、思っていた。彼に逢うまでは。「十夜」高くもなく低くもない声が耳を打った。とおや。それはわたしの名前。十日の夜に産まれたから、十夜なのよ、と。いつだったか、わたしを産んだ人から教えられたような気がする。ぼんやりと天井を映していた瞳を横にずらすと、彼はいた。「由良」名を呼べば、彼は儚げに微笑んでこちらに手を伸ばしてきた。わたしはそれを拒むことなく受け入れる。冷たい手だった。「いつからいたの?」「ずっと」薄い唇が、囁くように言う。
「起こしてくれれば良かったのに」「とても気持ち良さそうに眠っていたから」わたしは顔をしかめた。まぬけな寝顔をずっと見られていただなんて。そんなわたしの思いを知ってか知らずか、由良はその長身を折って、わたしの髪にそっと口づけをした。まるで、いとおしくてたまらないというように。わたしは思わずくすくすと笑い声を漏らしながら、華奢に見えて実はしっかりした背中を腕に抱きしめた。由良はくすぐったそうに身をよじり、同じようにくすり笑って、耳元で囁いてくる。「ああ、十夜にさわれる」確かめるように、わたしの髪を何度も何度も撫でる。それが何ともいえず心地よくて、わたしは目をつむった。「十夜は温かいね」「由良は冷たい」まるで、氷のように。「それでも、十夜のぬくもりを感じることはできる。それだけでも、感謝しなければならないんだろうね。あの、窓の外の月に」「………うん」「綺麗だね、月は。不思議で、魅力的で。まるで、十夜みたいだ」「…………」そんな恥ずかしいことを臆面もなく言ってのけるところが、彼のすごいところだと思う。赤く染まった頬を見られないように、わたしは彼のまっ白いシャツに顔を押しつけた。

 それから長いようで短い時間が流れ、由良はふらりと顔を上げて、ひどく残念そうに呟いた。「そろそろ、行かなければ」わたしを抱きしめていた腕をほどき、長い指でわたしの頬に触れる。その感触がやっぱりどうしようもなく冷たくて、わたしは哀しくなる。「泣かないで」ひどく困ったような顔をして、由良は言った。いつのまにか、わたしは泣いていた。ぽろぽろと目から溢れて止まらないそれは、彼の指を容赦なく濡らしていく。それによって、彼の白い肌がいっそう透明度を増したかと思うと、由良の身体は本当に透き通り始めた。まるで溶けていくかのように、浅い闇の中へと消えていこうとする。わたしには、どうすることもできない。由良は静かに微笑んで、わたしの唇に唇で触れた「また、明日」そう言って、名残惜しそうに唇を離す。そして、由良の姿は完全に闇の中へと飲み込まれた。わたしに、何ができただろう。ゆるゆると涙を拭いながら、窓の外に目をやれば空は薄暗い。夜が明けるのも時間の問題だ。彼は、由良は不思議な存在だった。夜にしか、彼に会うことは叶わない。それも、月の出る日に限られる。昼間はもちろん、月の出ない日には声を聞くことも姿を見ることもできない。儚く、脆い存在。月が見せる、まぼろし。「ゆら」確かめるようにその名前を呼ぶ。いまだ由良の感触が残る唇にそっと触れた。そう、それでも彼はたしかに存在しているのだ。わたしの名を呼び、わたしを抱きしめ、優しい口づけをくれるのだ。夢なんかでは、けっしてない。それだけで、充分だった。マーベロン(Marvelon)事後避妊薬

(2)

「ああ、十夜。とても綺麗だよ。まるで」「言わなくていい」照れるから、と。機嫌を損ねたふりをして、ついとそっぽを向く。由良はくすりと笑った。「だって、綺麗だよ。ほら、十夜はこんなにも」長い指が、わたしの頬を撫でる。あ、と気づいたときにはもう遅かった。頬をすべり落ちた白い指先はとどまることなく、淡く口紅をひいた唇をゆるりとなぞっていった。「もう、せっかく塗ったのに」赤く染まってしまった彼の手をとって、やんわりと遠ざける。すると、由良は悪びれることもなく笑って、何を思ったのか、自らの唇にそれをひき、悪戯っぽく片目をつむってみせた。「おそろい、だね」「…………っ!」女のわたしよりも男の由良の方が似合っているなんてひどいと思う。けれど、赤く艶やかなその色は、由良の白い肌に映えていて、ぞっとするほど美しかった。「さぁ、そろそろ行こうか。僕らにはあまり時間がないからね………?」

 由良に手を引かれてやって来たのは、家の近くにある神社だ。いつもは静かすぎるくらいのこの場所は、今日は所狭しと屋台が並べられていて、とても賑やかだ。今日は年に一度の、夏祭りの日なのだ。「嬉しいなあ。十夜と浴衣デート、なんて」心底嬉しそうに、由良は言った。さきほどから由良がわたしを誉めちぎっているのはそのせいだ。今、わたしは浴衣を着ている。由良が好きだと言った桜の花びらが、黒地の布に散りばめられているそれは、綺麗だけれどわたしには少し大人っぽすぎて似合わないと思うのに、わたしよりもずっと美しい由良が白い頬を染めてわたしを見るものだから、なんだかその気になってしまって困る。それに対して、由良は出逢ったときから変わらない、薄出の白いシャツと黒いズボンといういたってシンプルな格好にも関わらず、それだけで道行く人々を振り返させる。それだけのものを、彼は持っていた。「へい、かっこいい彼氏。お嬢ちゃんに良い所見せたくない?」射的の屋台の前を通り過ぎるとき、陽気なおじさんが声をかけてきた。つられて棚に並べられた賞品をなんとはなしに見てみると、プラモデルやお菓子などの中に行儀よく座っている可愛いくまのぬいぐるみが目についた。すると、由良はにっこり笑って、「とってあげるよ」「本当?」わたしの顔は、ぱあっと輝いたと思う。
「ほい、二回で五百円だよ」おじさんの言葉に、わたしは財布から五百円玉を出して払った。本来ならそれは由良の役割なんだろうけれど、月のまぼろしにそれは無理というものだ。由良は銃を構えた。背筋をピンと伸ばして、まっすぐ前を静かに見すえる姿は、結構さまになっている。次の瞬間、パンッと軽い音が響いて、くまが棚から落ちた。「お見事!」おじさんは手を叩いて笑って、わたしにぬいぐるみを手渡してくれた。わたしは嬉しくなって、ついいつもの通りに由良に抱きついた。 だけど、由良の嬉しいような困ったような笑顔を見て、すぐにぱっと離れた。おじさんは「熱いねぇ」と笑い出すし、わたしはもう恥ずかしくて、うつむいて、もらったばかりのくまをぎゅっと抱きしめた。次の玉はなぜか狙いから大きく外れた。

「あ」いくつかの屋台を通り過ぎてしばらく、ライトに反射してキラキラ光るそれを見つけて、わたしは思わず立ち止まった。お祭りに来るとなぜだか無性に食べたくなる、赤くて甘いりんご飴だ。「食べる?」少しかがんでわたしの顔を覗き込んでくる由良。由良は背が高く、わたしに話しかけるときはよくそうする。「でも、たくさん並んでるし………」たしかに、りんご飴の屋台の前には六、七人の行列が出来ている。食べたいとは思うけれど、並んでまでそうしたいかと考えると少し迷う。子供ではあるまいし、ここは素直に諦めて通りすぎようとすると、由良が繋いだわたしの手を引き止めた。「僕が並ぶから、十夜はその辺で待ってて」「え、でも」「良いから」綺麗な顔でにっこり微笑まれてしまうと、わたしになす術はなかった。 由良が言ったとおり、少し辺りをうろうろしながら待っていると、見知った顔と出くわした。ピンク色のハイビスカス柄の浴衣をだらしなく着こなした彼女は、わたしと目が合うと、次の瞬間、ばかにしたような目つきで嗤った。よりにもよってなぜ彼女が、と。わたしは由良と一緒に並ばなかったことを心から後悔した。
「あれ? 鈴木じゃん。こんなところで一人で何してんのー?」そのニヤついた顔がたまらなく不愉快だ。濃い化粧では隠しきれない悪意が容赦なく降りそそぎ、思わず身をすくめる。「え? なになに? 誰この子」彼女の連れらしい甚平を着た派手な男が、品定めをするようにじろじろとわたしを見る。居たたまれなくなって、腕の中のくまをぎゅっと抱きしめた。「学校でさぁ、可愛がってやってんの。ねぇ? あたしたち仲良しだもんねー?」キャハハと耳ざわりな笑い声が頭の中にこだまする。(ああ)胸の奥に冷たいものが流れる。その内それが心ごと凍りついて、衝撃を受けても傷つかないようにと心の動きを止めるのだ。目の前が、真っ暗になろうとした、まさにそのとき。「十夜」澄んだ声音は、わたしの中の闇を一瞬にして追い払った。「ゆ、ら」もしかすると拳くらいの大きさがありそうなりんご飴を持って現れた由良は、わたしの震える声を耳にして、眉をひそめた。「どうしたの? 何かあった?」「――――っ」嗚咽がのどにつまって、何も言えない。すると、由良はようやくわたし以外の存在に気づいた。そちらに視線を向け、すうっと目を細める。「十夜に、何を?」その絶対零度の壮絶なまなざしに射ぬかれて、先ほどまで傲慢な態度で見下してきた彼女とその連れは、ひぃっと声にならない悲鳴を上げて逃げるようにその場を去っていった。「ごめん」しばらくの沈黙があって、由良は本当にすまなそうにうつむいた。「何で、あやまるの?」「十夜を一人にするんじゃなかった」すすり泣くわたしの頭をなだめるように撫でる。「そろそろ、帰ろうか」由良の言葉に、わたしはただコクンとうなづいて、腕の中のくまをそっと抱きしめた。プロコミルスプレー-procomil spray

(3)

 由良の冷たい手に引かれながら、ゆっくりと来た道を戻っていく。一歩、また一歩と足を進めるたびに、凍りかけた心がじわりじわりと溶けていき、麻痺した感覚が戻ってくる。涙が乾いて、目元がひりひり痛い。せっかく背伸びをして、慣れない化粧をしたのに。きっと、今のわたしの顔はいつも以上に不細工だ。由良はわたしを綺麗だと言うけれど、由良の方がわたしなんかよりずっと、何倍も綺麗。そう言うと、由良はやっぱり「十夜がいちばん綺麗だよ」と言って笑うのだけれど。「ねぇ、十夜」わたしの手を引いて少し前を歩く由良が、ふり向かずに静かに言った。「………なに?」「この世界は、十夜には少し、生きにくそうだね」先ほどの出来事を思い出して、ズキンと胸が痛む。「………そう、かもしれない。けど、今は由良がいるから、へいき」どんなに嫌なことがあっても、夜になれば由良に逢えるから。この冷たい手が、全ての傷を癒してくれるから。(だから、だいじょうぶ)「じゃあ、僕がいなくなったらどうするの?」由良が何気なく言ったその言葉に、わたしは戦慄した。思わず立ち止まってしまったわたしの手を、由良が怪訝そうにぐいと引く。だけど、駄目だった。動かなかった。どうしたって、それ以上足は一歩だって踏み出せはしなかった。

(いなくなったら)たった、それだけの言葉が。こんなにも痛く、辛く、重く、心にのしかかる。「十夜?」いつのまにか透き通った二つの目が、わたしの顔を心配そうに覗き込んでいた。「十夜、どうしたの」「いかないで」すがるように、その目を見つめる。やっとのことで絞り出した声はかすれて、ちゃんと伝わったのか自分でも分からない。けれど、由良は目を瞠って、それからふわりと微笑んだ。「僕は、どこへもいかないよ。ただ、ちょっと考えただけ」由良は遠くを見るように目を細めて、月を見上げた。そうすると、わたしは怖くなる。由良が、どこかへ行ってしまいそうな気がして。「僕がいなくなったとしたら、十夜は、どうするのかなぁって」「死んじゃうよ」死んじゃう、と。念を押すようにもう一度つぶやく。由良はわたしの答えを予想していたのか、ほとんど驚くことはなく、わずかに顔をしかめただけだった。「それは………哀しいなあ。十夜が僕のせいで死ぬなんて」「せい、じゃなくて、ため。わたし自身のため。同じ死ぬでも、意味が違うよ」「それでも、十夜が死ぬことには変わらない」わたしの手を包む冷たい手に、少しだけ力がこもる。どうしようもなく、涙が溢れた。
「だって、それしかないんだもの」由良の手を離して、両手で顔をおおう。「由良のいない世界なんて、生きてたってしかたがない」膝を折り、うずくまる。見渡す限り暗闇だったわたしの世界。それを月光のように優しく照らしてくれたのは由良だ。由良は、今のわたしの世界の全てだ。それがなくなって、どうして生きていけるというのだろう。「………ごめん。また泣かせるつもりはなかったんだ」肩に、そっと手が置かれる。「僕は、どこへもいかないから。だから、泣かないで」「うそつき」とっさに口から出たその言葉。分かっていた。知っていた。本当は。由良がいつか、わたしのそばから消えてしまうことくらい。ただ、信じたくなくて、認めたくなくて、考えようとしなかっただけ。顔を上げて、由良を見つめる。由良はいつもと同じように微笑んで、わたしを優しく見つめている。胸が、痛かった。「嘘じゃ、ないよ。僕が十夜を置いてどこにいくっていうの? 僕は、どこへもいかない。いつまでも、十夜と一緒にいるよ」信じて、と。微笑みながら平気で嘘をつく。ごまかすようにふっと綺麗な顔が近づいてきて、人目も気にせずついばむようなキスをされた。唇に触れたそれは、途方もなく冷たくて、哀しくて。「十夜には、いつだって笑っていてほしいんだよ」耳元で、優しく諭すように囁く由良。わたしに、うなづくこと以外の何ができただろう。信じること以外に、わたしにできることは何もないのに。

(4)

 家に着いたとたん、わたしは着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。枕に顔を押しつけて、声を上げずに泣く。静寂の中に、くぐもった嗚咽だけが響いて、ひどく虚しい。「十夜」いたわるような声で優しく名を呼ばれる。いつもならそれにこたえてすがりつくのに、今はどうしてもそうすることができない。この声が、いつかわたしを拒絶して、置いていくのだと思うと、哀しくて淋しくて苦しくて。「十夜」もう一度、呼ばれる。枕の端を握りしめた手がぴくりと震えた。「泣いているんだね?」そう言った由良の方がよっぽど泣きそうな声をしていて、胸が痛くなった。返事をするかわりに、こらえていた嗚咽をこぼすと、止まらなくなる。「ふっ、うっ………っく」「泣かないで、十夜」ぎしりと、ベッドが軋んだ。長い指が髪に触れる。赤ん坊を寝かしつけるように、わたしのあまり肉付きが良いとは言えない身体にぴったり寄りそって、由良は何度も何度も優しく頭をなでてくれた。わたしの抵抗はからくも崩れ落ち、溺れて助けを求めるようにその広い胸にぎゅっとしがみつく。とくとくとく、と。規則正しい音を感じて、高ぶった感情が少しだけ落ち着いた。なだめるようにぽんぽんと背中を叩かれて目線を上げると、困ったような笑顔で由良が見下ろしている。
「十夜、お願いだから泣かないで。十夜が泣くと、僕も哀しい」そうして、本当に哀しそうな顔をしたので、わたしは言われるままにこくりとうなづいたけれど、流れる涙は止まらない。すると、由良がふっと顔を近づけてきて、何をするのかと思ったら、頬に柔らかな感触を感じて、目を瞠る。「くすぐったい」恥ずかしさに頬を染めて弱々しく抗議の声を上げると、由良は伏せていたまつげをわずかに上げて、じっとわたしを見つめる。もう、由良は笑わなかった。表情を隠すように両目を伏せて、涙で濡れた唇をおもむろにわたしの首筋へとすべらせる。わたしはぴくんと身体を震わせた。思わず逃げようとした手は、やんわりと絡めとられてしまった。そうしているあいだに、しゅるりと、着つけるときにはあんなに大変だった帯が、あっさりとほどかれてしまった。もう、どうしようもなくなって、されるがままでいると、ふいに由良が耳元で熱っぽく囁いた。「十夜、誰よりも愛しているよ」ビビッドビリリティ vivid女性用

「………う、ん」わたしはゆっくりと目を覚ました。どれくらい眠っていたのだろう。頭がぼうっとしてはっきりしない。けれど、ふとした違和感を感じて、気だるい眠気をまといながら、おもむろに起きあがる。かけられていたシーツがはらりと落ちて、裸の肌がざわりと粟立った。「由良?」ぽつりと呟いたそれは、静かな空間に異常なほどよく響いた。朝日に照らされたシーツの上に、求めた姿はどこにも見い出せない。眠っているわたしを起こさないように、ひとり静かに行ってしまったのだろうか。そう思うと、寂しくもあり切なくもある。「ゆら」もう一度、呼んでみる。むろん、返事はない。昨夜、寂しいとむせび泣くわたしを、由良はいやと言うほど強く抱きしめて、「大丈夫」と、「僕がいるから」と何度も何度も耳元で囁いた。嵐のような口づけを受け入れながら、冷たい手が肌をなぞるのを感じながら、わたしはそのとき、これ以上ないと言うくらい幸せで、安堵感で一杯だった。いっそこのまま死んでしまえたら良いと、そう心から強く願った。それなのに、無情にも朝は来ていた。月は去り、太陽が昇る。わたしにはどうすることもできない。もどかしい。ただ、涙がこぼれた。

(5)

 時間は残酷なほど早く、わたしだけをとり残して駆け抜けていった。今、わたしのそばに由良はいない。あの夏祭りの夜を最後に、あとかたもなく消えてしまった。信じられなかった。信じたくなんかなかった。前日の夜、あんなに何度も「そばにいる」と誓ってくれた由良が、次の日にはまるで何ごともなかったかのようにわたしをひとり置いていってしまったなんて。だから、わたしは由良を待った。気が狂うような夜の静寂の中を、一睡もせずに由良の訪れを待って、待って、待ち続けた。なのに、どれだけ待っても由良が現れることはなかった。もう二度と、わたしに逢いにやって来て、笑ったり、抱きしめたり、口づけてくれることはなかった。そして、わたしは生きる気力を一切失ってしまった。由良はわたしの全てだったのだ。由良がいなくては、わたしはもう生きてゆけない。真っ暗な闇の中、一人ぼっちで立ちすくむわたしを光のもとへと導いてくれる、あの冷たくて優しい手は消滅したのだ。右も左も分からない空間で、たったひとり。立ちつくしたまま、一歩も動くことができないおろかなわたし。とてつもない恐怖だった。たえられるはずがなかった。
 だから、由良に言ったとおりに死んでしまおうと思った。由良は哀しいと、笑ってほしいと言ったけれど、笑顔を見せたい相手はどこにもいないのに、どうやって微笑むことができだろうか。死ぬのは怖くなかった。どこでもいい。地上を見下ろせる高いところならば、学校の屋上でも、ビルの天辺でも。柵を乗り越えて、あとは一歩踏み出すだけだ。そうすればきっと、由良のところへいける。そう思った。だから、怖くなんかない。由良がいない世界に比べれば、そんなものはどうってこともなかった。それなのに、どうしてだろう。あと一歩というところで、わたしの足は動きを止めた。何度踏み出そうとしても、地面に張りついた足はなぜかびくともしないのだ。他にも死ぬ方法はいくらでもあったけれど、いつも最後の瞬間になると、まるで由良に抱きしめられているかのように身体が言うことをきかなくなってしまうのだ。とうとう死ぬことも生きることもできなくなってしまったわたしは、やがて痛みも苦しみも感じられなくなり、残ったものは傷跡だらけの醜い身体だけだった。後にも先にも動けなくなり、どうして良いのか分からないまま、ただ時間ばかりが過ぎていった。

 そんな時だった。身体に異常を感じたのは。ゆっくりと密かに、けれど着実に進んでいたそれは、今ではその存在をはっきりと主張していた。来るべきものが来ず、ほとんど何も食べてはいないというのに、腹部がそうと分かるほど膨らんでいる。それらが意味するものの意味が分からないほど子供ではなかったわたしは、悩んだ末にひっそりと病院へ向かった。そうして検査が終わり、一人でやって来たわたしに何かわけありと見たのか、やや複雑な表情をした医師が伝えた結果は予想どおりのものだった。「あなたは妊娠しています」その事実はあまりにも自然にわたしの中にすとんと入り込んできた。(わたしが、妊娠している?)震える手でそっと膨らんだ腹部に触れてみた。とくとくとくと、規則正しい心音が感じられた。まるで、由良の胸に縋って泣いた、あのときのよう。「由良」ぽつりと名を呼んだ瞬間、それにこたえるようにわたしの中の小さな命がかすかに動いた。と同時に、空虚な胸にせき止められていた想いがどっとあふれ出す。(ああ、そうだ)そういうことなのだ。由良が残してくれた、たった一つのもの。由良の分身。だから、由良だった。由良そのものだった。
(わたしの中に、由良がいる)どんなに探しても見つからなかったのに。由良は、こんなにも近くにいたのだ。どこにも行かず、ずっと、わたしのそばに。『ずっと、そばにいるよ』思い浮かぶのは優しい笑顔。そうして彼は口づけをくれたのだ。ああ、どうして今まで気がづかなかったのだろう。由良が約束を破ったことなど、ただの一度もなかったのに。由良は、消えてなんかいない。由良は、ここにいる。生きている。今、ここに。わたしの中に!「早く、早く生まれてきて、由良。そして、わたしをその手で抱きしめて………っ」もう、月のない夜に逢えないと嘆くことも、夜を待ちわびて昼に心を殺すこともないのだ。いつのまにか両目からこぼれ落ちていた涙を拭い、わたしはふわりと微笑んだ。もう、わたしは泣かない。だって、わたしはひとりじゃないのだから。ドイツ女郎.Germany.Girls
posted by chinaseiryokuzai at 11:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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