2009年03月16日

心許無い聖母(こころもとないマリア)

 きっかけがなんだったのか。いつからだったのか。今となっては思い出せない。「先生、先生」「うん?」「見て。雪降ってるよ」「ほんと?」思わず立ち上がって身を乗り出した。窓の外は濃い群青で、グラウンドの向こうに街明かりが広がっている。彼が指差す先を、じっと目を凝らして見つめた。天気予報では明日の朝から降り始めると言っていた。予想以上に気温が下がったのかもしれない。冬の夕刻、彼と私以外誰もいない職員室の空気は冷え切っている。吐く息が白く、薄暗い室内にたちこめる。「雪……」探したけれど、影も形も見当たらない。立った拍子にずり落ちてしまった膝掛けを彼が拾ってくれた。「あ、ごめんね。ありがとう」「嘘だよ」「え?」「雪。降ってないでしょ?」奇正消痛貼膏
 椅子から腰を浮かせたままの私を見上げて、彼は破顔した。ふはっと、吐息を零すような笑い方の癖。気づいたときから好ましく思っていた。高校生の平均より頭一つ背が高く大柄な彼も、表情によっては年相応の少年に見える。明るく無邪気に笑う彼を眺めるのが好きだった。ただ眺めるだけで。それはとても、安心する光景だった。彼は笑いながら謝った。私は気が抜けて椅子に座り込んだ。「先生、すっげ深刻な顔して机に向かってるから。ちょっと邪魔してみた」「そ、そう? そんな顔してた?」「してた。何か問題あり?」提出課題の添削が思うように進まず、こんな時間まで学校に残っていること自体が問題ともいえる。
「大丈夫。みんなよく出来てるよ」プリントを捲りながら答える。むしろ私の方が要勉強だ。生徒たちがどこまで授業を理解しているのか、できるだけ詳しく把握しておきたい。一人一人の得手不得手や、もっとわかりやすい教え方、知りたいこと、学びたいことがたくさんあった。奇果 「古典の文法活用が苦手な子が何人かいるみたいだから、そこは対応策が必要かな」「ふぅん」彼はにこりとした。「先生ってさ。一部の誰かに満点とらせることより、赤点スレスレのやつらのマルが一つでも増えるように考えてくれてるでしょ」全く意識していなかったことを指摘され、返事に詰まった。「数学のイワさんとか、単純な計算ミスでちょっと順位落としたりするじゃん、相当煩く言うんだぜ。英語の田中女史もさ、スペルミス一つ見つかっただけでもぉうっせーの。お小言の嵐」「私はまだ新米だからね。他の先生たちみたいに責任ある立場の人は難しいんじゃないかな、色々」口調は軽かったけれど、彼の愚痴めいた言葉を耳にするのは初めてで内心驚いていた。彼は成績優秀な生徒で、生活態度も申し分ない。当然、将来を期待されている。プレッシャーには強そうに見えるけれど、過度の期待が重かったりするんだろうか。屈託ない笑顔の裏で、負担に感じていたりするんだろうか。周囲には微塵も悟らせずに?よぎった考えに動揺する私をよそに、彼は笑みを深めている。「先生のそういうところ、すげー好き」なんの意図もないように。ためらいなく。だから好き。だけど好き。彼がそう口にするようになったのはいつからだっただろう。妻之友
「俺のは?」「え」「課題」「あ、うん。ばっちり。言うことないよ」「マジ? やった」線の引き方、プリントの折り目一つでわかる。大らかさの中に丁寧で細やかな気質を兼ね添えた彼の、筋張った無骨な手が器用にチョークを使い、すらすらと淀みなく解いていく。正解し、クラスメイトの賞賛に照れ笑いを返す。賢く努力家で、驕ったところもない。課題の出来を褒められただけでこんなに喜んでくれるほど素直でもある。リーダータイプというよりも、どちらかといえばヒーローに近い。職員室でもたびたび話題になる。どこに出しても恥ずかしくない模範生だ。私の足元に跪いて、膝掛けをそっと掛け直してくれた。大きな手が、ふれるかふれないかのところにある。伏せたまつげが緩やかに上がった。強い瞳。さっきまでの柔らかさが消えて、もう、笑ってはいなかった。
「先生、寒くない?」「ありがとう。大丈夫よ」「俺は寒いんだけど。風邪引くかも」「ごめんね、こんな遅くまで。私、これ終わらせなくちゃ。まだ時間かかりそうだから、先に帰ってて」なかば懇願するように促すと、彼はため息をついて隣の椅子に座った。学生服に包まれた長い脚を持て余し気味に投げ出している。「先生ってほんと真面目だよね。まぁ、そういうところも好きだけど」薄暗い照明の下、彼は俯いている。少年らしさを残していながら、精悍な横顔。「なんか手伝えることない? 俺、待ってるからさ。ここで」「駄目。帰って」きっぱりと断る。平静を装い、取り繕って。聞かなかったことにする。何もなかったことにする。目は見ない。決して見ない。見てしまったら、拒絶の言葉なんてたった一言さえ出てくるはずがなかった。「お願い。もう帰って。待っててくれても……一緒に帰れない。駄目なの」「なんで?」率直な問いに答えられず、無言で下を向いた。「どうして、先生」片仔廣軟膏
 ――どうして。秋休みに、仲の良い生徒たちで紅葉を見に行くということで、私も誘ってくれた。引率を兼ねたつもりがなぜか途中から一人減り二人減り、いつのまにか彼と私だけになっていた。戸惑いながら、少し先をゆく彼について歩いた。紅葉は見惚れるほど美しかった。けれど、彼は珍しく俯きがちで言葉少なだった。その横顔が耳まで赤く上気していることに気づいたとき。つられて火照った頬の熱さが、ふとした拍子によみがえる。今でも、鮮明に。
(特定の生徒と親しくし過ぎるのはどうかと思いますよ)(あなたはまだ経験の浅い新任教師で、しかも若い女性なんですから)(本人はもとより、他の生徒たちにも色々と影響があるでしょう)含みのある言い方。探るような視線。ショックだった。私が彼を頼りにしていたのは事実だ。他愛ない会話やしぐさ、やりとり、彼はいつも優しかった。私が緊張しているとどこからともなく現れて驚かし、笑わせ、励ましてくれた。落ち込んでいるとさりげなくそばに来て、親身になって話を聞き、慰めてくれた。彼は優しかった。最初からずっと優しかった。けれどそれは私にだけじゃない。私の方も、彼の存在を心地よく、頼もしく思っていながら、とくべつな感情を抱くことはなく、あくまで教師と生徒として接してきた。片仔廣牛黄解毒片
 ――つもりだった。「先生」椅子の肘掛に手を添え、ぐっと身を寄せてくる。お互いの息がふれた。私はいっそう縮こまって沈黙した。無言でいなければ、何を口走ってしまうかわからない。お願い。早く。ここから出て行って。私のそばからいなくなって。「あぁ」低く掠れた、吐息のような声が耳元で響いた。肌が泡立った。「先生、こんなところにほくろがあるんだ。目元に、すごく小さいやつ。毎日見てたのに気づかなかった……」熱を帯びた、痛いほどの視線を感じる。「泣きぼくろがある人は涙もろいって言うけど、先生、学校では泣かないよね。でも先生の雰囲気に合ってる。すげー合ってる。良いと思う」沈黙を保つことが苦痛になってくる。自分で自分を守るように抱き締めた。
「先生、いつもそうやって心細そうにしてるから」肘掛に置かれていた手が浮き、何度かためらって、そろそろと動いた。頬を掠める指先に思わず身を竦ませる。私の反応に彼はいったん手を引き、また伸ばしてきた。今度は明確な意思を持って、ふれる。「なんでもしてあげたいって思うけど。顔見てたら、逆にもっと苛めたくなったりする。……ときどきね」言い訳みたいに付け加えた。「自分でも止められないから困ってるんだ。先生のせいだよ。どうにかしてよ。駄目とか言ってないで」冗談めかした、切実な訴えだった。私の言葉を待つ彼が黙ってしまうと、室内は無音になる。頬にふれたままの手は硬く、逞しかった。目を閉じ、感触に集中する。指先、関節、手のひら、体温。これが最初で最後だと思うと、想像以上に堪えた。惜しむ気持ちを押し隠して立ち上がる。排毒養顔
「約束があるの」彼の手を外し、暗い窓ガラスを見ながら話した。そこに、言うべき台詞が書いてあるつもりで。「私、お付き合いしてる人がいるのよ。仕事が終わったら迎えに来てくれることになってる。それから、二人で食事に行くの」「嘘だ」「本当よ。結婚の約束もしてる。だから、あなたの気持ちには応えられない。ごめんなさい」「嘘だ。信じない」言い切る彼の瞳は、けれど、不安や怯えを隠し切れないでいた。無意識なのか、私のカーディガンの袖をぎゅっと握り締めている。「ごめんね……」青ざめた彼の、絶望的な表情が胸に食い込んで痛い。謝ることしかできない私をひたすら見つめて、悪い夢なら覚めてくれと、一生懸命祈っているのかもしれない。 「先生、俺のこと好きって言った」――うん。言った。「そんな意味じゃなかったのよ。あなたはすごくいい子だし、たくさん助けてくれたから。それは感謝してる。とても」最初はただ、それだけのつもりだった。紐斯葆
 きっかけがなんだったのか。いつからだったのか。今となっては思い出せない。「あなたの気持ち、ずっと本気にしてなかった。あんまり簡単に言うから。今の子ってみんなそうなのかと思った。私が高校生の頃とは全然違うんだもの」「……本気にしてなかった?」彼はゆっくりと立ち上がり、震える声で繰り返した。「俺、簡単に言ってるみたいに見えた?」自分勝手に、一方的に、こんなに、こんなに、傷つける。許さないで。怒って。嫌いになって。お願い。早く。早く。私のそばからいなくなって。(俺、先生のこと好きだよ)(私もよ)何も知らなかった頃のように心のまま、応えてしまう前に。「誤解させてしまったことは、ほんとうに悪かったと思ってる。……ごめんなさい」俯き立ち尽くしていた彼は緩慢な動作で目元を拭った。「ひでー女」そのまま顔を上げることなく踵を返し、走り去った。バタバタと足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。静寂が戻った。見下ろす靴先に、雫が数滴、散っている。目を逸らし、力の入らない腕でカーディガンの前を合わせて机に向かった。紐斯葆OB蛋白痩身素
「……寒い……」頬が冷たい。ぬくもりは消えていた。「早く終わらせて帰ろ」広げたままの提出課題の中から、彼の名前を探す。丁寧だけれどやや角ばった、男の子らしい字。目に焼き付けて、慣れておこうと思った。これから先、この字を見ても、彼の涙を思い出すことのないように。真っ直ぐな視線を、震える声を、思い出すことのないように。見つめるうちに、隅の余白に小さく、ともすれば見落としてしまいそうに小さく短く、一言だけ。問題とは関係のない質問が書いてあるのを見つけた。紅葉の下、俯いて歩く彼の姿が脳裏に浮かぶ。帰りの道中ずっと、どこか思い詰めたような、何か言いたそうな表情をしていた。――また一緒に行ってくれる?悩んで。迷って。とうとう最後まで口にしなかった言葉。今こうして書き残すことも、どれだけ葛藤しただろう。何度も消して書き直した跡がある。
 そんな思いを、これ以上ないくらい残酷に踏みにじったひどい女。本当にその通りだ。いっそのこと嫌な女だと詰られることを望んでいた。その方がまだよかった。その方が、きっと楽だった。……私が。震える指先を、紙の上で滑らせる。――いいよ。あのとき、あの場所でなら、きっと。目を閉じた瞼の奥。彼が笑っている。いつもの笑顔で、せんせい、すきだよと、駆け引きも何もなく、ただ笑って。「私もよ……」もう二度と伝えられない本音が、涙と一緒に零れ落ちた。男露888
posted by chinaseiryokuzai at 17:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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